道の駅 茶の里東白川
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村史に見る東白川村茶業の歴史

東白川村の村史によると今から約450年前に寺の住職が京都宇治から茶のみを持ち帰り村の人たちに茶の栽培を推奨したとあります。
約450年前といえば安土桃山時代で、足利義満から豊臣秀吉による宇治での茶の栽培に対する格別の庇護で宇治茶のブランドが高まっていた時期です。
東白川村は地理的にも近江、京都に近く交流も頻繁に行われていたでしょうから納得できる話です。

ただし住職が茶の実を持ち帰えり茶の栽培を始めたという逸話は隣の白川町(以前は西白川村で町村合併で今の白川町)にもあります。
両者が「白川茶発祥の地」と主張してきましたが、今では周辺の地域を含めて「美濃白川茶」という統一された名称でおいしいお茶のブランド向上に励んでいます。

東白川村村史より
約450年前
その昔、大沢村番龍寺(蟠龍寺)の住職が山城国宇治から茶の実を持ち帰り、里人に与えて茶の栽培を奨めたのが始まり。往時の茶製法は「七度煎り」と称し、茶の生葉を強く熟した平釜(または鍋)で炒って、それを搓揉したのち、やや火力を低めた釜で再び炒り、またこれを搓揉する。こうして漸次釜の温度を下げながら数回繰り返したのち、陰干しにした。並製はきわめて粗製で、一度湯を通して乾燥しただけであった。

江戸時代
幕末ごろには生茶の生産量も増えて、製法も釜製と称し、従来の七度炒りの手間数を簡略して一度釜で炒ったものを蓆(むしろ)の上で丹念に揉み、風乾(日陰乾)にするのが一般的となった。

明治・大正時代
明治5~8年(1872~75年)にかけて海外市場への道が開かれたことによって、にわかにその商品性を高めた。本村で生産された茶の出荷販売先は、信州および飛騨方面で、仲買人が各農家を回って買い集めた荒茶を精製して、各地の茶商へ輸送販売した。

終戦から昭和28年ごろまでの村の産業統計の中には、茶の生産に関するものが除外されており、その間の生産量等は不明である。

昭和時代
昭和24年ごろ、農協事業として茶園改良と優良品種(ヤブキタ)の導入が始まり、茶の換金作物としてとしての有効性が認識されるようになった。
そして昭和28、9年ごろには、村内各地で有志による茶業研究グループなどが誕生するようになり、長期にわたって不振を続けた茶業部門にもようやく増産への灯りが点った。
こうして、茶業振興への関心は次第に高まり、生産量も徐々に伸びたが、これは一気に、白川茶の一大生産地化へと本格的な動きに移ったのは、昭和35年に樹立された「新農村計画」以降のことであった。
すなわち、この計画では、茶は、稲作・養蚕・畜産と並ぶ本村の基幹作目として、向こう5カ年間に50ヘクタールの集団茶園造成をはじめ緑茶共同加工施設の建設等の事業が盛り込まれた。

ことに品質向上については45年8月に行なわれた岐阜県茶業総合品評会において、本村からの出品茶8点が、農林大臣賞を獲得したほか、1等2点、2等3点、3等2点と出品茶全部が上位入賞の快挙を成し遂げ、郷土の特産「白川茶」の名声を高めるなど、ここに名実ともに白川茶主産地としての地位を不動のものにしたのである。
※この農林大臣賞は51年までの連続7回の記録を誇っており、関西茶品評会でも常に上位に入賞するなど、今や全国有数の銘柄茶に成長している。